やがて静が小さく息を吐き、眉を下げる。ふっと微笑んで春花を見つめた。「わかったよ春花。俺が毎日送り迎えする。そうしよう」「でもそんなの……」「迷惑じゃない。俺がしたいからするだけ」「……甘えてもいいの?」「むしろ恋人なんだから、もっと甘えてほしいんだけどな」「えへへ……難しいなぁ」静がそっと頭を撫でてやると、春花はほんのり頬を染めた。恋人に甘えること、そんなことはドラマや漫画の世界でしか見たことがなかった。むろん高志に甘えたこともない。毎日気を遣い高志の顔色を伺いながら生活をしていた春花にとって、他人に甘えるということは安易にできるものではない。甘えようものなら不機嫌になり、その場の気分で怒鳴り散らす高志に毒されていたからだ。そんな春花が高志のモラハラから脱出したいとなんとか正気を保っていられたのは、静の音源があったからに他ならない。静の存在にどんなに癒され助けられたことだろうか。それなのに恋人の静は、春花に「甘えてもいい」と言う。贅沢すぎる申し出に春花は萎縮するが、春花の意を汲み取った静は「いいんだよ」と優しく春花を抱きしめた。暖かいぬくもりに包まれていると、すーっと心が落ち着いていくのがわかる。春花は戸惑いながらも、愛されていることを実感して胸が熱くなった。「ところでさ、春花」「うん」「何で元彼のことは名前で呼んで、俺のことは未だに苗字なの?」「えっ?」「もしかして何も疑問に思ってなかった?」「だって桐谷くんは桐谷くんで、なんか慣れちゃってて……」「俺の名前知ってる? 静っていうんだけど」「し、知ってるよ!」「じゃあそういうことで、よろしく」「……せ、静?」「……」「な、何か言ってよ。恥ずかしいんだけどっ」口元を抑えて黙ってしまった静に、春花は真っ赤な顔で慌てて詰め寄る。「いや……」静は春花からふいと目をそらすと、「……可愛すぎてどうにかなりそう」とぼそりと呟いた。「え、えええ~~~!」お互い真っ赤な顔になりながら、恋人として一歩進んだことに胸をときめかせていたのだった。
◇電車通勤をしていた春花だったが、静の車で送り迎えをしてもらう日々に変わった。助手席に座ると特別感が増す。「ふふっ」「どうした?」「すっごく恋人っぽくて優越感!」「それはよかった」運転している横顔は凛々しく、静の隣にいることが夢のように感じられる。しかも職場まで毎日送迎してくれるのだ。高志の脅威よりも静から与えられる愛が大きくて、春花は安心感でいっぱいになった。あれ以来、高志の姿は確認していない。春花も静も店長の葉月でさえ、防犯面に関していつも以上に気をつけていたが、幸いなことに何事もなく日々が過ぎていった。送迎時は春花が店に入るまで静が付いていく。過保護なまでの扱いに春花は最初遠慮したが、静は頑として譲らなかった。「おはようございます」「おはよう、山名さ……えっ!」たまたま出勤時間が同じだった葉月と店の前でバッタリ出会い、葉月は春花の隣に立つ静の姿を見て驚きのあまり言葉を失った。「もしかして本物の桐谷静……?」「店長、こちらは……」「初めまして、桐谷静です。いつも私のCDを平積みにしてくださっているそうで、ありがとうございます」「え、いえいえ。私、ファンなんです! サインもらえますか?」「ありがとうございます。今日は時間がないのですみません。今度お邪魔するときにたくさん書かせていただきます。じゃあ、春花。俺は行くね。また帰りに」「うん。ありがとう」静は春花にそっと告げ、葉月にはペコリと一礼をして去っていく。その紳士的な背中を葉月はぼーっと見送っていたが、はっと我に返って春花に詰め寄った。「ちょっと山名さん!」「は、はいっ」「本物の桐谷静だった!」「そうですね。本物です」興奮気味の葉月はテンション高く、今あった出来事を思い返しては感嘆のため息を落とす。そんな葉月を見て、やはり静は有名人で人気者なんだということを改めて実感し嬉しくなった。「ところで山名さん。桐谷静と同級生って言ってたわよね?」「はい、そうですよ」「ふーん」葉月はニヤニヤとした笑みを浮かべ、春花は首を傾げる。「ただの同級生には思えないんだけど」「いや、えっと、その……お付き合いしてて」「そうでしょうそうでしょう。それしか考えられないわ。よかったじゃない」葉月は春花の背中をバンバンと叩く。荒々しい葉月の励ましに、春花はほんのり頬を染めながら
数日が過ぎ、静が以前から申し出ていたレッスンの見学が行われることとなった。大歓迎の葉月は自身のCDにサインを貰うだけではなく、店のポスターやポップにまでサインを貰うことに抜かりはない。図々しいお願いでも静は快く引き受け、和気あいあいとした雰囲気で店内がひときわ明るくなった。「まさかうちの店に桐谷静さんが来るなんて!」「ねー! 店長、どんなツテ使ったんですか?」「私じゃなくて山名さんの知り合いなのよ」「えー! 山名さん? すごーい!」「えっと、私が一曲弾く約束で来てもらったので……弾きますね」「えっ! 桐谷静に認められてるの? 山名さん、すごっ!」「あ、あはは……」盛り上がる同僚たちに持て囃されながら、春花はいつものレッスン室とは違う、発表会用のピアノの前に座った。個室になるレッスン室とは違い少しだけ観客が入るような広さの部屋には、静、そして同僚たちがわらわらと集まる。開け放たれた扉の隣は店舗と直結しており、来店する客も自由に行き来することができる。「みんなは静のピアノを聴きに来ているのに、まるで私のピアノ発表会みたい」「そうだよ。俺は春花のピアノを聴きに来たんだから」「本当に弾くの? 私の演奏なら家でも聴けるのに」「家と外では違うだろ?」「そうだけど……」まるでコンサートさながら、ピアノにスポットライトが当たり室内の照明がわずかに落とされた。「さあ、春花」静が背中を押し、春花は緊張しながらピアノの前に立った。ペコリと一礼すると、わあっと歓声が上がる。椅子に座るとザワザワとした店内がしんと静まり返り、春花の身がきゅっと引き締まった。
すうっと息を吸ってから、ポロン……と鍵盤を叩く。とたんにピアノの世界に引き込まれるような感覚に、春花は胸を震わせた。指が鍵盤に吸い付くように動いていく。誰のためでもない、自分のために弾くピアノ。音楽の世界は心地良い。普段のレッスン時の「春花先生」とは違う、ピアニスト山名春花がそこにはいた。「すごい、山名さんってこんなにピアノ上手いんだ!」「やっぱり先生ってすごいのねぇ」感嘆のざわめきが起こる中、葉月が静に耳打ちする。「最近山名さんの顔色がいいと思っていたんだけど、きっとあなたのおかげなのね。あなたと一緒にいるからとても幸せそう」「それならよかったです。でも俺の方が春花と一緒にいて幸せなんです。店長さん、これからも春花をよろしくお願いします」「こちらこそ。山名さんには期待してるのよ。というわけで、山名さんの次はピアニスト桐谷静が一曲披露していただけるかしら。一曲でも二曲でも、飽きるまで弾いてもらって構わないんだけど」「なかなかハードですね」「ふふっ、商売上手って言ってほしいわね」葉月は不適に笑い、静は苦笑する。とても雰囲気のいい店舗なのはやはり店長の葉月のリーダーシップの賜物で、そんなところで働いている春花に以前「辞めたら」などと軽はずみに口にしてしまったことを、静は改めて反省した。
暖かなギャラリーに盛大な拍手で迎えられながら、演奏を終えた春花はほうっと胸を撫で下ろした。春花はワクワクするような懐かしいような、不思議な気分だった。観客のいる中でピアノを弾くのは何年振りだろうか。高校生の時の、発表会前のドキドキワクワクした気持ちが呼び起こされたかのようだった。静と目が合うと、ニコッと微笑まれて安堵する。「すごくよかった」「ほんと? 次は静の番だよ」小さくハイタッチをして、交代をした。静の演奏が始まると再びしんと静まり返る。綺麗で繊細なピアノの音色が耳に心地よく響いて、春花はふわふわと海の中を漂っている気持ちになった。静の実力は知っているはずなのに、いつ聴いても心に染み渡って美しい。感動すら覚えるその演奏はやはり圧巻だった。「春花」「はい」「トロイメライ」手招きされて、恐縮しつつも静の隣に座る。「いくよ」すうっという呼吸音で鍵盤を弾く。一体感の生まれる二人の演奏は観客たちの心を掴み、その音色はしっかりと刻み込まれたのだった。「やっぱプロは違うわ~!」「でも山名さんも凄かった~!」静の生の演奏を聴いた同僚たちは口々に感想を言い合う。それは静を褒めるものだけでなく、春花の存在感さえも確かなものとして彼女の評価を上げた。「店長、いろいろとありがとうございました」「こちらこそ、いい演奏を聴かせてもらったわ。ありがとう山名さん。桐谷さん、本当にタダでいいのよね?」「こちらが無理言って演奏させてもらったんですから、お金なんて取りませんよ。CDまた平積みしていただけると嬉しいかな」「もちろん、大々的に宣伝しますよ! 今日でファンになった子たちも多いみたいだしね」葉月は、未だ演奏の余韻に浸りながら興奮気味の社員たちに目配せをする。 そんな同僚たちの姿を見て春花は嬉しさでいっぱいになり、静は感謝の気持ちでいっぱいになった。楽しく心穏やかな時間は春花と静に活力を与えた。
いつも通り静が春花を迎えに行ったある日のこと。 店の前で春花を迎え、すぐ目の前の駐車場へ向かおうと歩を進めた時だった。「おい、春花。いいご身分だな」ひどく冷たいドスの聞いた声が横から耳に突き刺さり、二人はそちらに視線を向ける。「……高志」そこには髪を乱暴に掻き乱した高志が、春花と静を睨み付けるように立っていた。「なるほどな。男がいたからそっちに逃げたって訳だ」「違っ……」「春花に何の用だ。ストーカー被害として警察に付き出してもいい」静が春花をかばうように前に出る。そんな静を見て、高志はますます苛立ったように声を張り上げた。「人のもの奪っておきながら何言ってんだ」「春花はものじゃない。さあ、警察を呼ぼうか」その瞬間、高志はその場に崩れ落ち、先ほどの勇ましい態度が急変したように弱々しい声を出す。「春花、俺は春花がいないとダメなんだ。なあ春花、やり直そう。アパートも解約しないでくれよ。俺、お前がいないと死んじゃうよ」懇願するような態度は春花の気持ちをグラグラと揺らがせる。春花だってもう高志からの呪縛からは逃れているため簡単に心を持っていかれることはないのだが、わずかながらの罪悪感が動揺として現れた。そんな春花の心をピシャリと断ち切るように、静が凛とした声で春花の背中を押す。「聞かなくていいよ、春花。さあ、車に乗って」「待てって、春花!」高志の騒ぐ声に、道行く人が腫れ物でも触るかのように遠巻きに見たり避けたりしていた。やばい奴には関わりたくない、誰もがそう思い怪訝な表情をする中、春花だけは去り際に高志をチラリと見た。「え……?」ギラリと光る鋭利で気味の悪い輝きが目に飛び込んだ瞬間、春花は無我夢中で静を押し倒した。
「っ!」「ぐっ!」脇腹に鋭い痛みが走り、春花は体制を崩しながら倒れまいと必死に手をつく。ぐきっという鈍い感覚に顔を歪めるが、脇腹の痛みの方が強く意識を保とうとするだけで精一杯だ。静は春花に突き飛ばされるまま、道路にごろりと転がる。「キャー!」誰かの悲鳴と共に静が見た光景は、苦痛に顔を歪ませながら地面にうずくまる春花の姿だった。「春花!」抱き寄せようと手を添えると、ぬめりとした感触に戦慄が走る。静の手には春花の血がべっとりと付いており、一気に血の気が引いていった。「春花しっかり!」「静、ケガは?」「俺は何ともない」「……静が……怪我しなくてよかった。ピアニストは……怪我が命取りだもんね」わずかに微笑む春花に静は唇を噛み締める。「何言ってるんだ! 今救急車を!」静の呼び掛けに、春花は青白い顔をしながら小さく頷く。静の手のひらから春花の血がこぼれ落ちる。止めたくても止められない、赤い血がぼたぼたと地面を染めた。「春花! 春花、大丈夫だから」「……静が無事なら、それでいい」「よくない! 今救急車が来るからな!」ザワザワと恐怖に怯える通行人たち。 勇気ある者たちに取り押さえられながらも奇声をあげ続ける高志。 騒ぎに気付いて店を飛び出してきた葉月。 そして祈るように春花を抱きしめる静。泣きそうな静の顔が春花の視界に入る。(ああ、静に迷惑かけちゃった……)やがて救急車とパトカーの近付くサイレンの音と共に、春花の意識は混濁していった。
春花の脇腹の傷は、血が流れた割には思ったよりも浅く、命に別状はなかった。グキッと曲がった左手首は幸い骨には異常がなく、捻挫との診断だった。だが数日の入院を余儀なくされた。ベッドに横たわる春花の左手首には仰々しく包帯が巻かれており、静は悲痛な面持ちでそっと手を添える。「痛みはある?」「薬のおかげかな、今は大丈夫」「春花、ごめん。俺が守らなきゃいけなかったのに」「ううん。静のせいじゃない。元はと言えば私が変な男にひっかかったからいけないの。そのせいで静に迷惑かけちゃって……本当にごめんなさい」「春花のせいじゃない」「いいの。静が無事だったから。私のせいで静がケガしたら、それこそ耐えられなかったよ」春花の左手に添えられた静の手の上に、春花は右手を添えた。痛々しいほどに健気な春花に静は胸が苦しくてたまらなくなる。守らなきゃいけなかった、守るべき存在だった春花に逆に守られてしまった。自分だけ無傷なのが情けなくて悔しくてたまらない。「ねえ静、刺されたのは脇腹だし捻挫したのは左手だから、利き手は普通に使えるのよ?」「ダメだ。俺がすべてやるから」運ばれてきた夕食を前にして、春花は戸惑いを隠せないでいた。静が箸を渡してくれないのだ。「ほら、口開けて」「恥ずかしいから自分で食べ……むぐっ」有無を言わさずこれでもかと過保護に取り扱われ、成すがままの入院生活となったのだった。
春花の消息を尋ねるには、勤務先の楽器店が手っ取り早い。静はさっそく電話をかけてみる。『お電話かわりました、店長の久世です』「桐谷静です。お世話になっております」『どうかされました?』「あの、春花と連絡が取れないのですが、春花はいますか?」『今日はお休みなの。でも元気だから心配しなくても大丈夫よ』「……あの、春花に連絡がほしいって伝えてもらえますか?」『わかった。伝えておくわね』「はい、すみません」ひとまず春花が無事でいることだけは確認でき、静は胸を撫で下ろす。ただ、音信不通になった理由は未だにわからない。そして葉月との会話にも違和感を覚えたが、彼女の変わらぬ明るい声にそれ以上の追求はできなかった。 どうにか最低限の公演を終え責任を果たした静は、その後に企画されているものはすべてキャンセルして日本に戻った。一刻も早く春花の消息を知りたかったのだ。久しぶりのマンションは、自宅だというのにしんと静まり返りひんやりとしている。まったく人の気配がない。「春花?」声をかけながら一部屋ずつまわるものの、そこに春花の姿はなかった。春花だけではない。猫のトロイメライもいないし、何より春花の荷物がひとつもなかった。まるで最初からその存在はなかったかのように……。「……どういうことだよ?」なぜあの時すぐに帰国しなかったのか。 すべてを投げ捨ててでも帰国すればよかった。「春花、どこに行ったんだよ!」静の叫びは誰に聞かれることもなく、そのまま冷たい空気の中に溶け込んで消えていった。
ピアノを弾くのは楽しい。世界中の人を魅了することは高揚感がありとても気持ちがいい。もっともっと上に行けるのではないかと思わせてくれる。壇上でもらう拍手は何物にも代えがたい宝物だ。だけど足りないものもある。 それは春花の存在だ。一度は失いかけた演奏の楽しさを、気づかせてくれたのは春花だった。いつだって応援してくれるのは春花だけだった。いくら有名になってもいくら賞を取っても、心のどこかで満たされないものがある。それは隣に春花がいないことだ。静はそれにようやく気づいたのだ。静は春花に電話をかけたが留守電につながってしまった。それもそのはず、時差があるのだ。春花とは時間を合わせないと、仕事中だったり深夜だったりしてしまう。静は自分の浅はかな行動を恥じ、また明日時間を見計らってかけ直そうと気分を落ち着けた。だが翌日になっても、大丈夫だろうという時間にかけても、留守電にメッセージを入れても、一向に春花から返事が来ることがなかった。そしてさらに数日後には電話も繋がらない、いわゆる音信不通になってしまったのだ。嫌な予感がした。 いや、嫌な予感しかしない。まさか倒れたとか? また襲われたとか?そんな不安が過る。今すぐにでも日本に戻って春花の無事を確かめたい静だったが、次の公演はもう決まっておりそれを投げ出すとなると多くの人、企業に莫大な迷惑がかかる。天秤にかけるようなことはしたくないが、社会人としての責任感も簡単には捨てられなかった。
◇祝賀会は一部マスコミの入場も許可されており、主役の二人が壇上に上がることになっていた。メイサは自然と静の腕に手をかける。ぴったりと寄り添い、離れるつもりはないようだ。静は振り払いたいのを我慢しながら、渋々そのまま壇上までエスコートしていった。わあっと歓声が上がり、「やっぱりお似合いよね」などという声が上がる。まわりに囃し立てられ気分を良くしたメイサは、ますます静に体をくっつける。「ねえ、私たちもこのまま恋人になりましょう。二人ならきっと素敵な音楽が奏でられるわ」「俺には恋人がいるって言ってるだろ」「何言ってるのよ。これから海外公演が増えるのよ。日本に帰らないのに待っててくれるわけないじゃない。それにあの子、身を引くって私に言ったのよ」メイサの発言に静の思考が一旦止まる。春花とメイサに接点などあっただろうか。「……どういうことだ? 春花に会ったのか?」「ええ。静の夢を邪魔しないでねって忠告してあげたの。おかげで海外公演も大成功よ。感謝しなくちゃね」「は? ふざけるな。俺はもうメイサと弾く気はない」「何言ってるの? これから私たちはもっと有名になっていくのよ。とても栄誉なことだわ」「栄誉なんていらない。俺はそんなもの求めていない」「じゃあどうして海外に来たの? 有名になるためでしょ? 私たちなら世界中に名を轟かせることができる。それの何が不満なの?」「不満に決まってる!」静は吐き捨てると、そのままメイサの元を去った。祝賀会もどうでもよくなった。
抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。
何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。
静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。